富士山のπ合目2010/04/21 07:03

π合目等高線/富士スカイライン/標識
 富士山のπ合目              

富士山頂における標高のπ割を計算しその高度をπ合目とする。すなわち、
  π合目=3775.6×(π/10)=1186m
これだと一般に三合目とされる2000mラインよりも下になってしまうが気にしない。まだ誰も意識して踏破したことのないそのπ合目を目指す。同高度による等高線は下図の通り。高度が確認しやすいルートとして富士山スカイラインを選び市販の地図より目的地を特定、カーナビにセットしていざ出陣。前日の吹雪きもなんのその、積雪を蹴散らしながら西臼塚駐車場に向かうのであった。その途上に目的のポイントはあった。持参した「π合目」のプレートを道標に掲げて撮った記念写真が上図である。 (2008年2月11日)

図上 富士山麓のπ合目等高線 ©カシミール3D
図中 富士山スカイライン上のπ合目 ©国土地理院 1/25000
図下 表富士グリーンキャンプ場付近のπ合目

「天下布武」とは「天下を闊歩する」の意2010/04/21 13:44

 「天下布武」とは「天下を闊歩する」の意

 とある調べもので広漢和を繰っていたら「武」の項で次のような記述が目に飛び込んできた。

  【接武】ブをセツす[禮記、曲禮上]堂上接武、堂下布武

 面白そうなのでさっそく礼記をあたってみると、曲礼上第一の前部にその全文が見つかった。いわく、

  帷薄之外不趨 堂上不趨 執玉不趨
  堂上接武 堂下布武 室内不翔

  通釈; 戸張や御簾の垂れた前は、急ぎ通ることなく、堂上は急ぎ通  ることなく、玉を捧げるときは急ぎ通ることがない。堂上では足跡が  相接するように(小股に)歩み、堂下では足跡が互いに離れるように  (大股に)歩み、また室内では肘を張って飛ぶような形をした歩き方  はしない。  竹内照夫著/明治書院「新釈漢文大系27 礼記上」

 これによると、布武とは「大股に歩く」の意であることが分かる。兵の行軍のように大股で歩くさまから「武」の文字を用いるらしいが意味するところは軍事とは全く無関係である。さて、これをかの有名な「天下布武」に適用すれば「天下を大股に歩く」、意訳して「天下を闊歩する」と解することができる。「堂下布武」の一文字だけを書き換えた洒落、言葉遊びであろう。
 こうしてみると、歴史の授業などで習った「天下に武を布(し)く」とか「武力をもって天下を統一する」とか「武家による天下統合」などといった読み方は全くの見当外れであることが分かる。
 礼記とは儒家の経典である四書五経のひとつで、その名の通り古代中国の諸礼をまとめたもの。編纂は漢代と言われている。中でも曲礼には委曲の礼儀、つまり諸々の礼儀作法がこと細かに記されている。先の記事は、訪問先で邸内に入ったときに守るべきマナーをくどくどと述べたものである。
 信長の命により「天下布武」を撰んだのは沢彦宗恩(たくげんそうおん)なる臨済宗妙心寺派の禅僧と伝えられている。父信秀がわざわざ嫡男の師僧として招いた人物である。後に信長のために諫死した守役平手政秀の菩提を弔う瑞雲山政秀寺の開山となり、妙心寺の第三十九世住持となった。よほど漢籍に精通していたとみえて沢彦禅師には命名にまつわるエピソードが多い。名古屋市史の寺社編・政秀寺の項によると「寺領は初め九百貫文(初め沢彦、信秀の為めに信長の名を撰びて、褒美として三百貫文を給はり、天文二十二年政秀諫死の際、信長より茶湯料として三百貫文を給はり、又信長の為めに岐阜の名を撰びて百貫文を給はり、又朱印の文『布武天下』の四字を撰びて二百貫文を尾張海西郡の内に給はり、天正十年八月五日、信雄より先規に依るとの状を給はると云)ありしが、信雄の時二百貫文となり、豊臣秀吉の時二百五十九石六斗五升・・・」
 当然ながら、礼記は言うに及ばず四書五経くらいは諳んじていたとみて間違いない。かような名僧知識の経歴をみれば「天下布武」を「日本を武力制圧せよ」といった意味で篆刻せしめたか否かは自明であろう。
 「天下布武」の文字は公文書に捺す朱印に刻された。朱印は三種類ありそれぞれ永禄十年、永禄十三年、天正七年頃から使用された事が分かっている。さて、最初の朱印は永禄十年十二月五日付けで、正親町天皇から遣わされた綸旨および女房奉書への返書に使われている。綸旨には「古今無双の名将」という天皇の賛が記され、その返書に天下布武印が捺されていることから、信長英雄論者はこれをもってその壮大な意図が読み取れるとする。しかし、綸旨の内容は尾張美濃両国の禁裏御料所の回復と誠仁親王の元服費用調達の下命であり、返書も下賜への返礼と勅命拝受という儀礼的な内容に過ぎない。先代からの悲願である美濃の平定がようやく成就し、濃尾の太守になったばかりの信長に、果たして天下統一などを夢想している余裕があったかどうか疑わしい。
 繰り返しになるが「天下布武」は朝廷を威嚇恫喝するものではない。そのような事は有り得ない。しかし、返書を受けた朝廷の側がこの印文の意味を取り違えた可能性は無いとは言えない。翌永禄十一年九月十四日、足利義昭を奉じて上洛した信長に、正親町天皇は京における軍勢の乱暴狼藉を厳しく禁じる事態となるのである。東海の若き太守が精一杯趣向を凝らした洒落は、旧態依然の殿上人たちには通用しなかったものとみえる。