カッパ考2011/01/05 07:55

ソテロ図 カッパ図
  上図 ルイス・ソテーロ説教図
  下図 大外衣(プルヴィアーレ=カッパ)


 カッパ考                 

 河童が今日知られているような姿で描かれるようになったのは江戸期以降のこと。また、様々な呼称が氾濫する中で「カッパ」と称するのは江戸から仙台にかけてのごく一部に限られていた。その起源を求めて、かなり大胆な仮説を唱えてみたい。

 慶長18年9月15日(1613年10月28日)に伊達藩の牡鹿半島月ノ浦から支倉常長らの慶長遣欧使節がローマへと旅立った。率いるのはフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテーロ神父である。江戸の修道院長であったソテーロは伊達政宗から病にかかった愛妾の治療を依頼された折り、ペドゥロ・デ・ブルギーリョス修道士を派遣し投薬にてこれを完治せしめて公の知己を得ることに成功、領国での接見を望み米沢にて再会を果たす。これが縁となり仙台における外洋船建造や遣欧使節の派遣に繋がることとなる。
 上図、ソテーロ師説教図を見ると、当時のフランシスコ会士の修道会服に身を包み、頭頂部の毛髪を円形状に剃りあげたパードレとして描かれているのが分かる。この河童のような剃髪法をトンスラ(羅tonsura)という。さて、修道会服の背面に着目すると、頭巾付きの小マントが垂れているのが印象的である。まるで、亀の甲羅の下半分を背負っているようには見えないだろうか。下図、大外衣:プルビアーレ(Pluviale)はカトリックの司祭がミサなどで着用する祭服である。別名カッパ(Capa)とも呼ばれる。こちらの背面は正に亀の甲羅そのものである。米沢への道中、在来のキリシタンを集めては華麗な装束でミサを挙行したことであろう。もちろん伝道のマニュアル通り病人や怪我人に治療を施しながらの道中であったと思われる。河童が秘薬を授ける民話は数多い。また、求める者には窮理学(きゅうりがく=物理学)や舎密学(せいみがく=化学)を授けたかも知れない。そうそう、彼ら西洋人が剛毛で毛深く、風呂の習慣もないことから河童の如く生臭かったのは言うまでもない。